醍醐(だいご)天皇の命令で,紀貫之(きのつらゆき)らが編集
書き出しは「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」作者の紀貫之はなぜか女のふりをして執筆している。
書き出しは「春は、あけぼの。 やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の命令で,藤原定家(ふじわらのさだいえ)らが編集
書き出しは「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」
書き出しは「 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。」
書き出しは「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
芭蕉家の焼失、実母の死、飢饉などの心痛が重なったことを契機に、残り少ない人生を考え、自分の俳諧の完成を目指して旅に出たときの作品。
白眉とは中国の故事成語のひとつ。数ある優れたものの中でも、特に優れているものや人の例え
一般的には「弥次喜多」あるいは「弥次喜多道中」の通称で親しまれている。
ロシアに仕事で行った際、白夜で不眠症になり体調を崩す。帰国途中に45歳で死亡。
24歳の若さで肺結核で亡くなった女流作家。現在5000円札の肖像になっている。
自分のことを小説にするというスタイル。自分が姪を妊娠させ、外国に逃げ、帰国後復縁したクズ男っぷりも赤裸々に小説にし、芥川龍之介に痛罵される。
そんなに美人でもないが、与謝野鉄幹と不倫をし、略奪婚。のちに12人の子供を産む。
千円札の肖像になったことがある。同じ年に生まれ同級生だった「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」でおなじみの俳人・正岡子規と親友。
明治大学入学後、目の病気になり中退、酪農の道に。弟子に斎藤茂吉がいる。
「木曜会」といって木曜日には門下生が漱石の家に集まり、様々なことについて議論しあっていた。晩年には芥川龍之介も参加。
与謝野晶子の作品が好きだったようで、のちに与謝野家にも訪問していた。26歳で肺結核で亡くなる。
精神科医として、病院の院長もやっていた。師匠は小説家で歌人でもある伊藤左千夫。
歌人・彫刻家・画家であったが、本人は自分は彫刻家と言っていた。父ちゃんは西郷隆盛像を作った彫刻家 高村光雲。
初期の作風は説話文学であったが、晩年は生死を題材にしたものが多かった。師であり自分を見出してくれた夏目漱石を終生尊敬し続けた。35歳の時に将来に対するぼんやりとした不安から服毒自殺。
医者のお坊ちゃんで生まれ、年齢を偽って12歳で東大に合格!医学部卒業後は、小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医、官僚など多方面で活躍するスーパーエリート
病気でなくなる直前「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という有名な遺書があります。これは森鴎外が名誉や勲章などを望まず、「森林太郎」という1人の人間として生涯を終えたいという思いが込められたものでした。
母親が精神を病み、叔母フキの家にわずか7ヶ月の時に預けられます。その後父がフキと不倫しするという複雑な家庭で過ごし、本人も常に居心地の悪さや何かの不安を感じ、自分に自信がなかったと言われています。
なんと太宰治に奥さんを紹介した人がいぶますらしい。
茨木高校を首席で入学したものの、成績が下がったことで同級生や先生に馬鹿にされ、復讐するため東大に進学w72歳でガス自殺。
実は北条泰時の子孫。だが、父は康成が2歳、母は3歳で亡くなり、その後引き取ってくれた祖母は7歳、祖父は15歳でなくなり家庭環境は恵まれていなかった。
日本の児童文学作家
親友の久米正雄と女優をめぐってトラブルになり、恨みを持っていた。チャラい久米は次に夏目漱石の娘 筆子(ふでこ)を狙っていたが、松岡譲というナイスガイと三角関係になっていたので、いい機会に復讐しようと久米を陥れる怪文書を出した。
この人も東大です。とてもネガティブな性格で何度も自殺未遂を起こし、女性問題もとても多い人でした。38歳の時、美容師の女性と心中自殺。
十和田湖にある「乙女の像」の顔は智恵子がモデルではないかと言われている。(体は別のモデル)レモン哀歌が有名。
女性に対する想いが溢れた作品が多い。私生活でも妻の妹が好きになり、ちょうど妻のことが好きだった親友に妻を譲ると約束します。ところが妻の妹に振られたので妻と親友の結婚はなしね!と約束を破ります。これで親友と絶交。でも最後は仲直りするというハチャメチャな人生。結婚は3回しましたw
父親の教育方針で、幼少期は西洋人の家で暮らしていた。妻と死別後人妻を好きになり、45歳の時にその不倫相手と心中する。
京大卒。3歳の頃に曾祖父の妾(めかけ)に育てられる。
東大の久米正雄(山本有三に復讐された人)と芥川龍之介、松岡譲(夏目漱石の娘 筆子の旦那)、成瀬正一と、京大に在籍した菊池寛の5人で雑誌「新思潮」を発行した
東大卒。民話、. 伝説に興味を持ち、昔話を素材にして作った作品は多い。
プロテスタントで生涯独身。反戦左翼思想に傾倒し、多くの受賞の中で国家に関わる賞は全て辞退している。
生まれてすぐ里子に出され、4歳で実家に戻ってくる。東大を出た後は教師、中学・高校の校長を務める。
小説家、童話作家。 小豆島の郵便局に勤めた後、上京し詩人の壺井繁治と結婚。 夫など影響を受け作家となった。
日本の童話作家。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、一連の作品は「ひろすけ童話」と言われる。
坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれる。
幼い頃から鉱石や植物、昆虫の採集に熱中するオタク少年で学校の成績はとても優秀でした。
中学で反抗期になって成績が下がったものの、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)は首席で入学。
大学では教授から助教授にと推薦さてたが、妹や自身の結核もあり地元の農学校で教師をしながら創作活動をする。
晩年は自分の死期を悟ったかのように、教師を自主退職し、農業や自分の趣味に没頭。37歳の若さで死去。
生前 に詩集「春と修羅」「注文の多い料理店」を出版したほか、雑誌や新聞にいくつかの詩や童話を発表していたが、当時はそんなに有名作家ではなかった。
この「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」など多くの作品が賢治の作品のすばらしさに気付いていた友人・知人によって死後発表されたものである。
「くまのプーさん」「ピーターラビットのおはなし」など欧米の児童文学の翻訳も手がける。太宰治は桃子のこと好きだったらしい。
「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれ、浜田広介と坪田譲治と並んで「児童文学界の三種の神器」と評される。
とても短気だったらしく、未明の童話がほとんど短編なのはその性格のせいだと坪田が話している。
めっちゃ外国人っぽいと思ったら、父親はアイルランド、母親はギリシャでホンマに外国人でした。東大で英語の先生に日本国籍をとったみたいです。
東大卒。戦前、戦中、戦後と一貫して自由主義者としての立場を貫き、東大教授を約束されていた立場を捨て、作家として生きた。
幼い頃から少し体が弱めだったが、体育大学を受験。体格検査で落ちる。
南吉が4歳の時、実母が死去。父はその2年後再婚するが、8歳くらいの時離婚。が、半年後に同じ人と再婚。南吉はその半年間だけ祖母と暮らす。
東京外語大学を卒業し、小学校で働くが体を壊して3ヶ月で退職。半年サラリーマンをして、また教師となる。29歳で死去。
庶民や子どもの生活、身近な動物を描きながら、心の通い合いや美しい生き方といった普遍的なテーマを、ストーリー性豊かに表現。
赤ちゃん向け絵本『いないいないばあ』、世界中で翻訳されている童話『龍の子太郎』、そして『ふたりのイーダ』など、多くの子どもたちに読まれる児童書を数多く著した。
「ちいさいモモちゃん」はシリーズで児童書のベストセラー
鹿児島県立図書館長、教員もしていた。日本における動物文学の代表的人物。
白い猫が好きで、小説「モモちゃんとあかね」のモデルになった猫のモモを飼っていた。